若くして妻に先立たれたAさんには三人の子がいました。
長男のBさんは定職に就かず、借金を重ね、Aさんはその尻ぬぐいに追われていました。
Bさんの年の離れた妹である長女のCさんと二女のDさんは、いずれも真面目で勉強好き、かつ、とても親孝行でした。
ある日、AさんがBさんの浪費癖を説教したところ、逆切れしたBさんは「あんたを親とは思わない。」と捨て台詞を残して、実家を出てゆき音信不通となり、その所在が全くわからなくなりました。
やがて、Aさんは病気がちになり、思うように体が動かせなくなりました。
CさんとDさんは、献身的にAさんの看病や身の回りの世話をしていました。
Aさんは、娘たちの負担を少しでも軽くしようと自宅のバリアフリー工事をしました。しかし、工事完了後まもなくAさんは自宅で心臓発作を起こして救急搬送され、1週間後、病院で亡くなりました。
CさんとDさんが悲しむ間もなく、Aさんが入院していた病院から入院費の請求がきました。また、工務店からバリアフリー工事の残代金の請求がきました。
若いCさんとDさんに支払える額ではありませんでした。
一方、CさんとDさんがAさんの遺品を整理していると、複数の銀行にまとまった預金があることがわかりました。CさんとDさんは、その預金を使って病院や工務店の支払いにあてようと思いました。しかし、ここで困ったことに気づきました。
Aさんの相続人の一人であるBさんの行方がわからないため、遺産分割協議ができないことです。
ふと、CさんとDさんは、妻に逃げられた町会長の父親のことを思い出しました。今から10年前、町会長の母親は、15本の黒いチューリップをリビングのテーブルに残していなくなってしまったのです。
町会長の父親は、妻を懸命に探しましたが、妻の所在を見つけることはできませんでした。
結局、分かったのは町の名所の屋根付橋を撮影にきた写真家と駆け落ちしたこと、黒いチューリップの花言葉が「私を忘れて」ということ、15本のチューリップには「ごめんなさい」という意味があることでした。
落胆した町会長の父親は急激に老け、妻が家出してから1年後、失意のままこの世を去りました。
CさんとDさんは、町会長の処に行き、町会長の父親が亡くなったとき、町会長の母親の所在が分からない状態でどのように遺産分割協議をしたのか尋ねてみることにしました。
町会長が話すには、「所在不明の母親について家庭裁判所に不在者の財産管理人選任の申立てをして、家庭裁判所が選んだ母親の財産管理人と遺産分割協議をした。時間がかかるが、それが一番確かなやり方だ。」とのことでした。
しかし、CさんとDさんは今すぐ金が必要なのです。そのことを友人に話すと、友人から民間のADRに相談してみればと言われたのでした。
CさんとDさんが民間のADRに予約を入れて、ZOOMで相談してみると、数年前に民法が改正され、遺産分割前であっても、相続人が一定の範囲で遺産に含まれる預金を引き出せるようになったことを知らされたのでした。
CさんとDさんは、Aさんが預金を預けていた複数の金融機関を回って、預金の一部払戻しの手続きをとり、病院と工務店への支払いを無事終えたのでした。
コメント
故人の預金は遺産であり、遺産分割協議により誰がいくら取得するかを決めることになります。遺産分割協議がいつまでたっても成立しない場合、相続人らは預金を引き出せません。
しかし、相続人らは、故人の葬儀費用や故人の死後に請求のきた入院費用や施設の入居費用の支払をする必要に迫られることが往々にしてあります。そこで、民法は、以下のように相続人が金融機関に対して遺産である預金の一部分に限って払戻しができるように規定しています。
1 故人の預金口座について、口座ごとに死亡時の残高の3分の1の額を計算します。
2 相続人は、1で算出した額に法定相続分の割合を掛けた金額を、その口座から引き出せます。ただし、1つの金融機関から引き出せる金額の上限は150万円です。
払戻しを受けた相続人は、遺産の一部を事前に取得した扱いとなります。
なお、払戻した預金から葬儀費用や故人の医療費、施設費用等を支払った場合、他の相続人への説明や相続税申告のためにも、領収書類は保管しておく必要があります。
以下、具体的な例を挙げてみます。
相続人が故人の妻と2人の子の場合で、故人が甲銀行に900万円の普通預金を有し、600万円の定期預金を有していた場合はどうなるのでしょう。
法定相続分は妻が2分の1、2人の子はいずれも4分の1です。
妻は150万円(900万円×⅓×½)まで、2人の子はいずれも75万円(900万円×⅓×¼)まで、普通預金から払戻しを受けることができます。
また、妻は100万円(600万円×⅓×½)まで、2人の子はいずれも50万円(600万円×⅓×¼)まで、定期預金から払戻しを受けることができます。
ただし、2人の子は、普通預金と定期預金を合わせて、合計125万円までの払戻しを受けることができますが、同一の金融機関から払戻しを受けられるのは150万円までなので、妻は普通預金と定期預金を合わせて、合計150万円までしか払戻しを受けることができません。
詳しい手続きについては、金融機関に「遺産分割前の相続預金の払戻し制度」を利用したい旨申し出て説明を受けてください。